2024/05/19
●芳さんの青春期!その2 大学編
大学編
翌年、大学に進むことになり、
今では懐かしい都電が走る荒川区東尾久に4畳半ひと間のアパートを借り。
いよいよ東京と言う大都会に船出することになりました。
大学は、中央大学と言うこれまた歴史のある大学で希望に燃えて入学しました。
少し歴史を紐解くと、中央大学は1885(明治18)年7月、
東京府神田区神田錦町に18人の少壮法律家によって
英吉利法律学校として創設されたといわれています。
でも芳さんは、これまた、有名な法学部ではなく、
当時、両親が商売を営んでいたということもあり
商学部会計学科を選択しました。
将来税理士か公認会計士と言う職業にあこがれを持ち初めておりました。
クラブ活動も簿記会計研究会に所属して、将来のための勉強をしておりました。
そんな中でも暇を見つけては、
JAZZ喫茶店めぐりや映画サークルに入り映画に夢中になったり、
アルバイトに精を出しながら、大学生活を楽しんでおりました。
しかも、当時の中央大学は、学生運動が再び盛んになり、
セクト争いや、火炎瓶やバリケード封鎖、
警察介入など大変な状況でも有りました。
中央大学 wikipediaより
1960年代に、いわゆる安保闘争に加えて、
完成した学生会館の自主管理闘争、学費値上反対闘争が起こり、
ストライキなどの結果、いずれも学生側の勝利に終わった。
これに危機感を抱いた大学の理事者側が、
弱腰と見られた教授会の上部組織として「常置委員会」の設置を発表。
これを「大学自治」の危機と捉えた学生側は「全学中央会議(全中闘)」を結成。
「昼間部自治会」とサークル組織であった「学友会」は、
闘争に関する権限を全中闘に集約し、全面対決となった。
神田カルチェ・ラタン闘争を主導した。
1969年に全学ストライキからバリケード封鎖、機動隊導入による排除と
大学当局によるロックアウトという事態となり、
半年間の中断を経て授業を再開したものの、
文化系のサークル活動は壊滅状態で、
学内はブント系各派(主に2派)、革マル派、サークルを母体とした
ノンセクト派、社青同協会派、民青同盟が入り乱れて
一触即発状態が長く続いた(現在は社青同協会派は自然衰退しており、
革マル派は微弱ながら学友会の中で存在している)。
そんな中、大学四年生になった時に芳さんの家庭に
大きな変化が起こりました。
それは母親が難しい肝臓の病気を発症してしまったのです。
おりしも、両親が事業拡大のための当時、
高崎にあった藤五伊勢丹デパートへのテナント出店の準備をしており、
特に働き者の母親が中心にテナント準備を進めていた所でした、
そこでの母親の病気が発症してしまったのです。
これには、共に母親に期待していた父親も頭を抱えてしまいました。
そんな折に大学卒業の時期を迎え、
出店準備と将来の設計に悶々としながらも、
出店準備は加速度的に忙しくなり、
卒業と同時に家業に専念することになりました。
業種は、化粧品とブランド品を取り扱うお店でした。
お店の運営と母親を看病する中で、
病院・クスリ・西洋医学への関心が強くなり、
この時はまだくすり屋への意識は全く芽生えているわけではなく
何とか母親を治したい一心で、当時の医療を受け入れながらも、
改善の方向が見られない母親に対して芳さん自身迷走の時期だったと思います。
くすり屋芳さん誕生はまだまだ先です、次回社会人編に続きます。楽しんでください。
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